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茶番に寄せて

批評ブログです。

志村のちんぽかどうかより

「志村の画像」は何かと話題にのぼる。

先日、志村けんのインスタグラムに男性器の画像が投稿された。所属事務所によれば、不正アクセスによる被害なのだという。しかし、巷間“つぶやかれる”のは「誤爆だろww」という見解。

もうひとつ「志村の画像」が取りざたされたことがあった。数か月前、橋本マナミのインスタグラムに投稿された志村の誕生日会のスナップショットだ。

67歳を祝うには似つかわしくないファンシーな会場。その中央に据えられた志村と周囲を取り囲む若い女性タレント群。

「女子更衣室に忍び込んだ変なおじさん」そのものである姿には確かに違和感がぬぐえない。

 

ネット上では概ね、色ボケじじいとかその権力にすり寄る女の醜悪さ、気持ち悪さを表象する画像として取り上げられ、拡散された。

真偽のほどや価値判断はさておき、上の二つの事例に共通しているのは、志村は「解釈」を生んでしまうということだ。ぼくたちはなぜか志村に、画像から発されるメッセージ以上のものを読み込んでしまう。

想像の域を出ないが、仮にこれがたけしやさんまだったら、ぼくはこれほどの話題性を持ちえなかったと思う。

 

それはなぜか。結論から言えば、たけしやさんまには主体がある。言い換えれば、彼らからは常に自発的なメッセージが発されていて、ぼくたちも無意識的にそれを受け入れているからだ。

ふたりの芸名を例にとろう。

ビートたけし。「ビート」は英語で、砂糖の原料となる甜菜(てんさい)のことだ。よく知られる通り、たけしの芸名は「甜菜たけし」→「天才たけし」という言葉遊びから出来上がっている。

つまりたけしからは、常に自らを天才と称するメッセージ(とアイロニー)が発せられていて、それが彼自身のキャラクターも統制している。「ビートたけしを天才と思うか?」という問いには多くの人がうなずくことだろう。(余談だが菊地成孔は、「ビート」には「ビートニク」の意味合いを見出すこともでき、80年代たけし→フライデー事件→バイク事故というたけしの個人史に流れる退廃と死のイメージに符合する、と指摘している)

明石家さんま。「さんま」は彼の実家がサンマ缶詰の加工工場だったことに由来するが、これは由来よりも「さんま」という言葉自体に着目すべきだろう。芸名に「さんま」と冠するばかばかしさ、軽さ、安っぽさ。そのイメージ通り、いくらキャリアを重ねても実際の明石家さんまもばかばかしく、軽く、安っぽい。

 

一方、志村はどうか。「志村けん」のなかに彼のキャラクターを表す語句は何一つ含まれていない。

つまり、志村はたけしやさんまに比べて、自らのキャラクターイメージをマネジメントする意思が弱いのである。

 

それは志村のファッションにも表れている。志村はある時期から目障りなほどAPEを身に着けだした。細身を生かして鼻につかない程度に若作りするさんま(還暦を過ぎてもコンバースのローカットをよく履いている)や金髪にしてトータルイメージからコーディネートするたけしとは違い、全身をAPEで固め、文字通り服に着られている志村の姿はみじめで滑稽だ。このときAPEは志村のキャラクターを統制するメッセージであり得るだろうか。それは逆であり、あの「服に着られている」感じが、むしろ志村の主体の希薄さを際立たせている。

 

ここに「志村の画像」が余分な「解釈」を生んでしまう原因がある。

志村の主体は「からっぽ」である。ぼくたちはその「からっぽ」さがゆえに、自発的なメッセージを受け取ることができず、結果として志村に必要以上の意味を読み込んでしまう。

 

そしてここで重要なのは、志村は「いつからからっぽになったのか」ということだ。

それは、少なくともぼくが観測する範囲では、志村に対する「解釈」の多くが老醜を理由としているからだ。年甲斐もなく若い女に囲まれ、年甲斐もなく性器を撮影する。その違和感をこそ人は俎上に上げているように見える。

 

果たして志村は老いたから「からっぽ」になったのだろうか。

ぼくはそう思わない。それは志村のキャリアを振り返れば分かることだ。

 

志村といえば

「志村!うしろ!うしろ!」

だ。

考えてほしい。あのとき「全員集合」の舞台上の志村は、本当に「うしろに何がいるのか知らなかった」だろうか。そんなはずがない。志村は「うしろに何がいるか知っていた」のだ。志村はコントの設定上、「うしろに何がいるか知らないフリ」をして、客席の子どもたちに「うしろ!うしろ!」と言わせていたのである。逆に子どもたちからすれば、目の前の志村の「からっぽ」にこそ親しみを感じ、歓声を投げかけていたのである。

 

志村は確かに「からっぽ」である。しかし同時に志村は「からっぽ」を自覚し、引き受けてきた存在でもあるのだ。これで分かるだろう。志村は老醜がゆえに「からっぽ」なのか。違う。志村は今も昔も一貫して「からっぽ」だったのである。そして「からっぽ」であり続けたからこそ、今なお「解釈」を生み続けている。

 

ぼくは近年の志村をあげつらい、何事か言ったような面持ちでいる人々に、客席の子どもたちのような幼稚さを感じる。それは「うしろ!うしろ!」と歓声を投げているのと同じなのではないだろうか。志村は「知らないフリ」しているだけなのに……。

だがこれについては、実のところぼくも例外ではない。かくいうぼくも志村を「解釈」しているのだ。

数か月前、件の誕生日会の画像を目にしたとき、むくむくと幼稚な「解釈」が湧き出てきた。それは一般的な「解釈」とは少し違っていた。実は本稿はそのことを述べるために書かれている。

まずは下の動画を観てほしい。

 

 

 

 

 

 

「だいじょぶだぁ」のいしのようことの夫婦コント。

以下はぼくの「解釈」である。「からっぽ」な志村に投影した妄想ともいえる。

そのうえで述べるが、このふたりの掛け合いにぼくは愛を見出してしまう。ふたりの距離感、セリフの間、まなざしの交錯に愛情の通い合った者同士にしか成しえない表現を感じてしまう。

事実、このころ志村といしのは半同棲で交際していたといわれている。あうんの呼吸もさもありなんだろう。さながら「アニー・ホール」だ(「アニー・ホール」の撮影時、ウディ・アレンと相手役のダイアン・キートンは本当の恋人同士だった)。

 

このころの志村は愛を手にしていた。

翻って、誕生日会の志村はどうだろうか。そこに愛を携えた志村がいるだろうか。答えは言うまでもない。

ぼくにはあの画像が、「かつて愛を手にしていた男の哀れな姿」に見えた。

ひとは往々にして過去に大事なものを取り逃がす。取り逃がしたものはもう二度と返ってこない。しかし記憶だけは残り続ける。その写し絵のように見えたのだ。

 

 

 

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ところで、最後に付け加えたいことがある。

男性器の画像の件について。所属事務所は警察に不正アクセスの被害を報告した、との報道を目にしたのだが、この「被害を報告」とはなんとも収まりの悪い表現だ。なぜ「被害届を提出」ではないのか。

「被害を報告」と「被害届を提出」には大きな隔たりがある。おそらく前者は事実関係だけを知らせる「相談」と呼ばれるもので、後者は犯人を特定し処罰を求めるものだ。

芸能人に対する不正アクセスは過去に検挙事例もあり、被害届を提出すれば犯人を捕まえることも可能だろう。なにのなぜ「被害の報告」なのか。

思い当たる理由が一つある。軽犯罪法1条の16に「虚構申告」と呼ばれる条文がある。これは虚偽の被害を警察に申し出た者を罰する法律だ。つまり虚偽の事実で「被害届の提出」をしてしまうと……。

 

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いいや、やっぱやめた。言いたいことは以上です。みなさんおやすみなさい。